2012年7月17日火曜日

最良とは言えないが最適である、ということ


最近、自分なりに景観を定義づけしてみること、を考えています。

ウィキペディアによると(以下『 』内引用)、
『景観(けいかん)とは、日常生活において風景や景色の意味で用いられる言葉である。植物学者ドイツ語Landschaft(ラントシャフト)の学術用語としての訳語としてあてたもので、後に地理学において使用されるようになった。辻村太郎『景觀地理學講話』によれば、三好学が与えた名称である。字義的にも一般的な用法としても「景観」は英語landscapeランドスケープ)のことであるが、概念としてはドイツを中心としたヨーロッパLandschaftgeographie(景観地理学)の学派のものを汲んでいる。

田村明によると、都市の景(街並み)や村落の景(例えば屋敷森棚田漁港)など人工的な(人間の手が加わった)景を指すことが多いとしている。使用領域に関して見ると、「景観」の語は行政司法学術的な用語として使われることが多い日本では2004景観法が制定されたが、法律上「景観とは何か」は定義されていない。学術上は、前述の地理学や、ランドスケープデザイン学、都市工学土木工学社会工学造園学建築学等で扱われることが多い。また、コーンウォールと西デヴォンの鉱山景のように、世界遺産レベルで取りこまれる場合もある。』

とあります。私が普段対象としているまち並み景観を考える時、景観とは

『時間の蓄積によってつくられていく目に見えない(見えにくい)価値』であり、
『一度損なわれた時間の蓄積は簡単に取り戻すことが出来ないもの』である。

と考えるようになりました。

日常の様々な業務においては、頻繁に『景観に配慮する・すべき』という文言に触れています。この配慮については以前も書いていますが、最近はそれに加え『配慮しているという関係者の姿勢が見える・感じられること』が重要なのではないか、と感じることが多くあります。

例えばこの鎌倉駅前のコンビニエンスストアの例。自身もこうした協議に係わる立場から、『このようになった』ことの背景には、様々な検討・調整があったと推測することが出来ます。最良のデザインや方法は恐らく五万とあるけれど、様々な状況の中で双方(事業者・オーナーと行政)が歩み寄りつつ、現時点で最適な案に落ち着いたのだ、と思うのです。

鎌倉駅前のコンビニエンスストア。CIカラーの1色は明度・彩度が抑えられています。

若宮大路沿いの時間貸し駐車場。利用する人が意思を持って見るのあれば、この程度で充分、な表記。
この駐車場を見かけ、私がおもむろに写真を取っている様子をその場に居た建築家の友人が見ていましたが、すぐに『ああ、色が随分違うね』と気付いてくれました。ちょっと恐る恐る、こうした配慮をどう思うか、訪ねてみたところ『やはりこうした例を見るとまち並みに気を遣っていると感じる』ということで、なぜかホッとしてしまいました。

でもそれを舞台などに例える時、景観に配慮したという事実がスタンディング・オべーションを浴びるような必要はない、とも感じています。まち並みに混入される新しい要素が、少し既存のまちに対して敬意を払うこと。さりげなく多少控え目で、でも見る人が気づけば深く記憶に残る…。

まちに必要な様々な機能が、時間を重ねるごとにまちに根付くための、配慮という行為について、考えています。

先週、景観に関するとあるシンポジウムに行って来ました。その中で大変興味深かったのは、法律家の方の景観に対する考え方でした。冒頭の景観に対する自分なりの定義、はここから派生しています。
(ツイッターでつぶやいた内容ですが、防備として再掲しておきます。)

平成16年の景観法施行以来、色彩の基準・規制ついて良いことだ、という方には出会ったことがありませんでしたが、憲法学の木村草太氏は違いました。明確に『まだまだ数値に対応出来ることを信じて欲しい、高さやマンセルは』と。

数値規制に反対、の意見は逆に数多く耳にしてきました。私自身は色彩基準の殆どが目の粗いザルでしかなく、著しく景観を阻害する要因となる色を排除するためのものであるということをわかっていますが、規制=表現の自由を縛られる印象は、中々ぬぐえないものなのかとも感じています。

そこで始めたのがblogでありMATECOであり。今回立ち位置が1ミリも揺らぐことのなさそうな法律家の話を聞いて、景観法が(諸々の不具合はあるにせよ)誰のため・未来の何に対しての担保を約束するものなのか、共通認識としての規制は相応の・重要な役割を担っていると思いました。

一方、民意により市民の同意を要件にすればより厳しい規制も可能ですが、もう一方では財産権の侵害にあたるのでは?という問題。これは法の専門の世界でも 例題として挙げられるほど解釈・判断が難しく、一律に白黒がつけられるものではない、という説明も至極納得の行くものでした。

今後に向けては『景観という時間がつくる価値』は『一度損なうと二度と取り返せない』という二点を誰もが認識すべき、という至極明解な視点が示され、その 地域ごとのかけがえのない・置き換えの出来ないモノ・コトを設計者やデザイナーは全力で提示し続けなければならないのだ、と思いました。

海の日。夏の海風を久しぶりに浴びて来ました。

2012年7月3日火曜日

匂いもまちのらしさを表す-金沢にて

先週末、突然富山・金沢に行ってきました。ある建築を見に行こうと友人に誘われ、せっかくなら金沢まで脚を伸ばそうか、と話をしたのが4~5日前で、あまり下調べもしないまま、とにかく(いつものように)まちを歩いてきました。

その時々、かかわっている仕事によって気になることが少しずつ異なりますが、今回はつい広告物に目が行きました。

主計町からひがし茶屋町にかけては、風情ある木造建築が建ち並び、旅館や料亭・すし屋、カフェなどが軒を連ねていました。

主計町の旅館。夕刻、おかみさんが前で掃き掃除をしていました。
主計町の料亭。こういうところで食事したい気持ちをグッとこらえ…。
少し赤みのある紫は、京の雅の色。格子の弁柄色に馴染んでいました。
金沢で出会った幾人かの人達はとても気さくで、すぐ『どこから来たの?』と会話が始まります。ひがし茶屋町の方に聞いてとても興味深かったのは、『あのお麩やさん、大きなのれんを出したんだけどまちなみに似合わないってすぐ外すことになったのよ。』というお話。

通りの正面にあるお麩のお店。こじんまりしたのれんで充分だと感じました。
もうひとつは、『この裏に鉄板焼き屋さんが出来たんだけど、にんにく禁止なの。だって窓開けてこの通りににんにくの匂いが漂うって、おかしいでしょ。』
…確かにその通りです。茶屋町の伝統や風情、習慣が今に生きる魅力あるまちなみは、そこで食べるものや店先の商品も含め、全てが“らしさ”の対象となっているのだな、と感じました。

ヤナギの色合い、アジサイの可憐な造形と見事なコーディネート。
奥にちょこんと、人形が。灯りが道行く人を誘っていました。
十月亭があまりに素敵だったので、翌日ランチに。加賀料理・冶部煮を頂きました。
暖簾はそもそも、店内に陽が直接入り込むのを避けるため(=商品を守る)や、あからさまに店内を見せないため(=恥じらいや謙遜)といった、店主の商売に対する心意気やまちなみに対する気配りを感じさせるものであり、鎌倉時代より育まれてきた日本の伝統文化の一つなのだそうです。

五感の中で重要な視覚的効果をねらう演出は必要ですが、制御の効いた演出により店舗の内部を思わず覗いてみたくなるようなにぎわいや人の行き来する様子(=気配)をつくることを先人たちは得意としてきました。人目を引くこと=派手で目立つ鮮やかな色を乱立させることではなく、魅力的な商品やメニューを含め、店の“もてなしの雰囲気”を客の立場に立ち、丁寧に表現していくことが大切なのだと思います。

東京へ戻ると、すっかり見慣れたビニル製ののぼり旗や屋上広告など、鮮やかな色が目に飛び込んできます。他者を気にすることなく、自身の主張のみを繰り広げる屋外広告物の数々…。もちろん、歴史あるまちと近代的な都市ではふさわしい広告のあり方は異なります。混沌の中に宿る美、を完全に否定する気持ちもありません。

ですが、それを選ぶことに、日本人としての誇りを持てますか?
或いは、これがあなたが考える美意識の表し方ですか?
恐らく一生続く、自身への問いでもあります。

自己紹介

自分の写真
色彩計画家/環境色彩デザイン/いろでまちをつなぐ/MATECO代表/色彩の現象性/まちあるき/ART/武蔵野美術大学・静岡文化芸術大学非常勤講師/港区・山梨県・八王子市景観アドバイザー/10YRCLUB/箱好き/土のコレクション/舟越桂