2013年11月21日木曜日

建築学生からの質問に答えてみました-その3

今年の1月、立命館大学の学生が『建築と色彩の素敵な関係』というレクチャーを企画して下さり、その際のアンケートにたくさんの質問があったので『建築学生からの質問に答えてみました-その1』 『その2』 に回答をまとめておきました。

そういえばその時の質問がまだ残っていたな、ということに薄々気が付いておりましたが、12月を目前に年を越すのはさすがにまずいのではと思い、重い腰を上げることにしました。

改めて読み返してみると、ごく基本的な色彩学の知識を身に付けていれば解決できることが殆どです。見え方の特性や良し悪しを決定づける科学的要因を踏まえた上で、経験を積み重ねて行くこと。私が建築・土木等の設計を学ぶ学生に伝えたいのはこの2点につきますが、来年はより有益な方法論をまとめてみたいと思っています。
具体には、『色彩選定の7か条』のようなものです。

質問後半の3点は、実は口頭でもよく聞かれることです。色彩心理についてはテキストも多く、興味はあるものの…という方も多いのではないでしょうか。心当たりのある方、ご参考になれば幸いです。


【質問7】色と心理
●カラーセラピーみたいな色で人間の気持、感情ってコントロールできるんですか?
コントロールできる、と考えているのが色彩心理学等の分野だと思います。実際、ファッション等では演出の方法としても活用されていますし、クリニック等の色彩計画に取り入れられていることも多くあります。

自身は色がもつ力や作用に興味を持ってはいますが、その力をことさら強調して利用しよう、とは思っていません。なぜなら、そうした効果には絶対的に個人差がありますし、感情はそもそも刻々と変化するものだからです。

寝室のインテリアにブルー系を用いた部屋の住民は、睡眠時間が長いというデータがあります。アメリカのホテル経営会社が行った調査の結果です。その効果が確かなものだとしても、青系色が持つクールな側面や他の部屋とのバランスなどを考えると、やはりデザインというフィルターを通すことが重要なのではないか、と感じます。

色が持つ心理的な効果をただ手法として応用するのではなく、現象として空間に組み込んでいく、というプロセスが必要だと思うのです。

色使いにはその土地の文化が表れます。個性の強い補色対比、色の持つ性格を超え空間を彩ることの力強さ、暮らしぶり。色から読み取れる情報は多様。(2013年8月・ジャカルタにて)

●感情に与える影響(赤→怒、青→悲など) 
※箇条書きだったので、どういう質問なのかは不明
これも上記と同じことになりますが、色の持つイメージや効果は多様であり、赤でも暖かみや愛、青でも鎮静や知性、等の感情と結びつくこともあります。近年ではむしろそうしたイメージや概念と異なる展開により、意外性・話題性を打ち出していくという戦略も見られるのではないでしょうか(トヨタクラウンのピンク等)。

例えば赤が怒りの感情を表現する時の色にふさわしい・多くの人がそう感じるということと、赤い椅子が怒っているように見えるということは即イコールになりません。色の持つイメージを設計やデザインに展開した時、ロジカルに解くことが出来ないのは問題だと思っていて『怒りに満ちた空間を設計したい』という発想から赤が出てくる、といことはアリだと考えます。

色の持つイメージを活用することはとても面白い・豊かなことだと思いますが、その色の性質をダイレクトに伝えることは、特に三次元空間ではとても難しいと思っています。先日ある建築家の方が『結局のところ、空間の質を決めるのは構造である』と仰られていて、色単体を見ている訳ではありませんから、色が感情に与える影響が独り歩きさせるためには、そういう構造から考える必要があるのではないか、とも思うようになりました。
光(の色)がテーマですが、ジェームズ・タレル氏の作品のイメージに近いでしょうか。

【質問8】プレゼンに使う色
●鉛筆画のスケッチはうまく描けるが、色を塗ると台無しになることが多々ある
色は距離によって見え方が変わる、という絶対条件を意識すること、でしょうか。そもそも、色を『塗る』必要があるかということとも関係がありそうです。それがどういう素材か、構造か、ということによって、自ずと色が表れてくることが理想、というべきかもしれません。(参考:沈む色、浮き出す色

初歩的な取り組みとしては、次の2つが挙げられます。
色彩の心理にはいくつかの要因があり、その中に面積効果というのがあります。色見本等を比較する際、同じ色でも面積の大きい方が『明るく・鮮やかに』見えます。逆を言えば実際に壁面全体に使う色をそのまま1/100の立面図に着色すると、『暗く・鈍く』見えてしまうことが良くあります。
これは色の見え方の特性として仕方がないことなので、その前提を踏まえ、強弱をコントロールすることが(テクニックとして)効果的だと考えます。

もう一つはテクスチャーの表現方法です。現実には色単体を見ていることはほとんどなく、マテリアルの質感も含めて判断をしていますから、そのスケール感をどう凝縮・デフォルメするか、ということが重要なのではないかと思います。

例えばモザイクタイルの表現などを縮尺に合せて縮小していくと目地が強調され、図面が真っ黒になってしまいます(ものすごく当たり前のことなのですが、色でも同じことが起こっているということを示したので、あえて書いています)。色が苦手、と思うならスケッチやプレゼンの図面に無理に色を『つける』必要はなく、『伝わる』見せ方を考えれば良いのではないでしょうか。

例えば実務では、引きだしてマテリアルの写真を添付したり、実物のサンプルを提示したり。色はコミュニケーションの手段でもありますから、狙いが伝われば表現方法はどうでも良いのでは、と思うこともあります(…非常勤しててこんなこと言っていいのかなとちょっと思いつつ)。

●CG空間で色別に反射率を求める方法を知りたい
ごめんなさい、これは完全に専門外なので、別の方に聞いて下さい。

●カラーカードで判別した色をRGB値に変換する方法を知りたい
マンセル値→RGBに変換、等で検索すると、そういったサイトが沢山あるので、探してみて下さい。

●プレゼンに効果的な色の組み合わせ方
これは目的によって異なる、としか言いようがないのですが…。『どういう効果を狙うのか』を明確にすることが先決で、色先行で行くと大概おかしな結果になる、というのは自身の(若い頃の)経験です。

【質問9】その他
●国によって建築の色の映え方が違うのはなぜですか?
距離によって見え方が変わる要因は、湿度や空気中の眼に見えないチリ等、光を拡散させてしまうものにあります。網膜に光の反射が届くまでに、拡散する率が高いと色が鈍くみえたり、暗く見えたりすることはこれで説明ができます。

もう一つは、太陽高度の問題です。今年初めてインドネシアに行く機会があり、湿度は東京以上に高いのですが、色がとてもクリアに見えることを不思議に感じました。現地の設計事務所の方々と打合せの最中、西日をどう避けるかという議論がなされており、現地の方が作成した日影図を見ているときに気が付いたのですが、日本とは太陽高度が異なるので当然、同じボリュームでも影のでき方が違います。

昼間12時では1.5度くらいの違いしかありませんが、14時になるとその差は13.1度程の違いがあり(11月の場合)、日中も長く太陽が高い位置にあることから、色がクリアに見えるという状況になるのだと思います。

タマン・サリ(ジョグジャカルタ)。経年変化している壁にも透明さを感じました。
インドネシアの色彩調査では、建築外装色の色相がY(イエロー)系に集中していることがわかりました。樹木の濃い緑と素焼き瓦の屋根の赤、そして外壁の黄系。特に古い街並みに多く見られたこうした配色は、インドネシアの中でも地域毎に微妙に異なっているそうです。
…このリサーチ結果のまとめも、おいおい掲載して行きたいと思います。

●色を含めた様々なものに対するセンスが無いのが悩み
この『センス問題』については、自身の中では解決できていて。
一言でいうと、『とにかく沢山のモノを見聞きし、なぜ良いと感じるか、要因を考えまくって相互の位置や関係性を整理する』訓練を重ねることで解決が可能、と考えています。

センスとはそもそも五感、を指すそうです。いつの間にか美的感覚や感性、という意味が強くなっているように感じますが、感じる・感じ取る力、という方がしっくりくるように思います。特に美大生からこの質問を受けることはものすごく多くて、自身も学生時代のコンプレックスの最たる点だったかも知れません(今となっては何でそんなことで悩んでいたかしらという程のこと)。

とはいえ、今はセンスがある、と自信をもっていえるものでもいうべきものでもなく、個人的にはあらゆる創造行為を『センス問題』で片付けることほど、ナンセンスなことは無いと思っています。

2013年11月12日火曜日

地の色が整うことで、見えてくる個性

10月末、次回(2013年11月17日・日)のMATECO連続セミナーのための取材という名目で、長野県の小布施町でのんびりしてきました。このまちの色彩がもたらす魅力は一体何なのか、ということずっと考えています。

今回、2008年の年明け早々に初めて訪問して以来の再訪でした。前回は測色を行っていませんでしたので、まちの雰囲気を思い出しながらささっと測色のデータを集めて来よう、くらいの気持ちだったのですが、着いた途端、そんなお気楽な気持は吹っ飛んでしまいました。

栗の木のブロックが敷かれた舗装
この5年の間に、自身の色の見方も随分変わったな、と思います。視点は相変わらず、周辺や場との関係性に置いていますが、より微細に、変化や対比により一層敏感になったように感じます(オタクぶりに磨きがかかった?)。

老舗菓子店の軒先にあった、ブラウンのゴムホース
改めて、『修景』ということの重みを感じながら、小布施のまちを歩きました。ここでは住民の多くが何か新しいものをつくったり取り入れたりする際、『それがこのまちの景観にふさわしいか、否か』という判断基準が持ち出されるそうです。

この水やりのゴムホースを見かけた時、思わずシャッターを切りましたが、まあそんな観光客は私くらいのものでしょう…。

色を整えると工作物もしっかり景色になるのでは、と思います
色を統一する・調和を図る、ということについては、その一律さがもたらす単調さへの懸念や創造に対する思考停止のように思われる方も多く、様々な経験を重ねてきた専門家との議論になるとよく『茶色で統一する傾向は良くない』『周りが良くないのになぜ合せなければならないのか』と言われます。

先日もとある建築家の方が『自治体が決めた赤系の舗装に合せるのはどうなのか、都市的なまちに合わない、どこかで縁を切って良いものに変えていってもいいのでは』という趣旨の発言をされていて、思わず納得したものの、その一方では『長くそこにあるもの(の色を)尊重する、という判断は本当に検討に値しないものなのか?』とも考えてしまいました。

それはFacebookに投稿された一枚の写真と、それについてのコメントだったのですが、面白かったのは他の方が舗装以外のことにも言及し始め、『茶色のガードレールは良くない』 『擬木のガードレールやインターロッキングは撲滅すべし』等といった意見が噴出し始め、建築家が日々色々と苦労されている様子を伺い知ることができたことです。

アースカラーや茶系を嫌う建築家は私の身の回りにも本当に多くて、それこそ思考停止なのではないかと思ってしまうのですが。そこに長くあるものに合せることが、そんなに創造性のない行為なのか、長いものに巻かれることをヨシとしてはいけないのか、いつもその疑問が残ってしまいます。もちろん、悪しき習慣を断ち切る勇気や挑戦は必要なことも理解した上で、です。

先日マーケティングに関するコラムに、なるほどという一文がありました。色は名前がついていた方が親しみがわく、という分析データがあるそうです。例えば『茶色』よりは『コーヒーブラウン』の方が印象が良く、対象物のイメージと合致しなくても(例えば車にコーヒーブラウン、という色名がついていても)好感をもたれる割合が高いそうです。

景観色、景観配慮色も同様に喰わず嫌いをなくすため、『カフェラッテ』とか『エスプレッソブラウン』等と言ってみようかしら…等と思いますが、どうでしょうか?

と、話を小布施に戻して…。
目立たせる必要のないものの色を統一したり、店先が見苦しく無いように気を配ると、何が見えてくるのか、ということを考えています。
5年ぶりの小布施には、新しい色や色使いが沢山ありました。

2013年秋にオープンしたばかりの新しい店舗。彩度の高い外装色ですが、色相は周辺と同じです。

深い緑の中にヴィヴィッドなイエローと真っ赤なひざ掛け。はっとする色ですが、閉店時は隠れる色。
下の写真も新しい店舗の一画ですが、鮮やかな色がとても印象的に見え、商業施設らしい賑わいや活気が感じられました。

古い蔵を改装したえんとつカフェ。○(えん)と凸の文字をアレンジしたシンプルながら印象的なロゴデザイン。
白いテントとダークグリーンのテーブル&チェア。洋風のデザインですが、違和感なく重厚な蔵のまちに馴染んでいます。
菓子店の店先に設えられたカフェスペースはテントの色がお店ごとに異なり、それぞれの個性が演出されています。
印象的に演出したいもの、少し控えめでいて欲しいもの。そうしたヒエラルキーがとても明確で、見ていて迷いや狂いが感じられません。民度が高い、などと外部の人間が口にするのは気が引けますが、本当にこういうことがまちの美しさを支えているのだなと思います。

りんご畑の侵入防止柵。華奢な支柱に、動物除けの鉄線が張られたもの。
畑を動物に荒らされるという被害は、アドバイザーをしている山梨でも多く耳にするようになりました。丹精込めて育てたものを守りたいという気持ちは当然のことですが、そこで更に『見苦しく無いように』という気持ちも働くこと、これが客人に対するもてなしということなのだとしばしこの場に佇んでいたくなりました。

一つの側面からのみ、ものごとを判断しないこと、を心がけています。良いデザイン・良い色彩。それを単体として評価することは容易いかも知れません。畑を被害から守りつつ、美しい景色を生かす。或は、現代の生活に必要な便利さ、機能を損なわずに、まちがこれまで育んできたものに敬意を払い、そのエッセンスを継承していく。

素材や色にできることがまだまだある、という気持ちを新たにした、一泊二日の旅でした。

2013年11月1日金曜日

解像度を合わせる、という調和の図り方について

実に久々のBlogです。
今年前半は様々なアウトプットに追われ、じっくり振り返ることが後回しとなっています。

去る10月5日(土)の大イベント、MATECOの十人素色を無事に開催することができ、こちらのまとめもまだまだ進行中ですが、少し自身のことに目を向ける余裕が戻って来ました。

最近のいくつかの出来事に触れながら、改めて調和とは何ぞや、ということを記しておきたいと思います。

以下の写真は最近開店したとある市の店舗です。
先に申し上げておきますが、ここに例として挙げますが、この店舗を色彩の観点から批判することが目的ではありません。あくまで、景観法ができた現在でもこうした状況が改善できないのはなぜか、更に店舗の利益を損なわずに(例えばCIカラーなどの使用を制限しない方法で)『周辺環境との調和』を図ることはできないものか、と考察してみた結果であり、今後も続く自身の研究のような位置づけです。

数キロ離れた場所からも外装色・店名が認識される外観

この一年程、解像度、という言葉が気になっています。身近な建築家が用いる場合もありますし、自身がプレゼンテーションの際に説明に用いたり、最も頻度が高いのはスタッフとのミーティングの際、『この段階ではこれくらいの解像度でまとめるべき』とか、『この資料だと解像度が足りない』という具合に、深度や強度を共有するための言語として用いることが多くあります。

周辺と解像度を合せる、ということが調和につながる、と定義してみる
解像度とは画像における画素の密度を示す数値の事です。数値が上がるほど密度が高まり、解像度の高い画像は拡大した際などにも荒れることなく拡大して印刷物や大画面への出力に用いることができます。逆に解像度を下げるということは例えばメールに画像を添付して送信する際など、『全体の印象を保持しながら軽いデータに落とす』際などに用います。

画像等を扱う場面で言えば、解像度の高低は使用目的に応じて使い分けること、がプロの仕事の基本であり、確認・出力・保存等、それぞれの目的にふさわしい解像度が設定されています(業種により色々な解釈があるものの)。

これを景観、に置き換えてみたとき。こうした眺望景観等は遠景といい、距離を置いた視点場からある程度の範囲を捉え群となった個を見ています。色の見え方は距離を置くほど網膜に反射光が届くまでに光が拡散してしまいますから、明度・彩度共に徐々に下がって(鈍く)なっていきます。かたちの見え方も同様、輪郭は甘くなりフォルムも距離の変化に応じて曖昧になっていきます。

視点場から見る景観は遠景・近景に限らず、距離感と共にあります。遠くの山々の緑の葉一枚のかたちや色は同じ植物であっても足元にあるものとは見え方が違いますし、手前から奥に向かって物体が徐々に小さくなっていくという遠近感は『奥行や距離の違いを認識する手がかり』として眺望景観の保全には重要な要素です。

ということを言うと、『看板は目立たないと客が来ない、商売を妨害するのか』と言われそうですが。ここまで、看板を出すなとも使いたい色を使ってはいけない、とは一言も言っていませんので念のため。

二枚目の写真のように、例えば解像度の『度合い』を周辺と合せてみてはどうか、ということを考えています。距離の変化に応じ、見え方が拡散していくようなイメージです。原色の赤や黄であっても、面積が周辺のスケールから逸脱していなければ、距離を置いた時には周辺と同じように曖昧になってくれる場合は多くあります。

…まあ遠景からも何が何でも『店舗名と存在を主張したい』という意志に対しては通じない手法ですが。

実ははこの事例、どうすれば景観の阻害要因(この例で行くとスケール感を逸脱して目立つことに対する懸念)とならずに済むか、色々とアドヴァイスをしてきた案件です。色の使用面積を抑える、施設自体の分節化を図る、看板をパラペット(建物の上端)より高くしない、文字の大きさは建物高さの1/5程度でも十分走行する車両から認識できる…等々。

法的な整備が整っていない段階で協議をしなければならないという状況。基準がある訳ではありませんから、何色を使おうがどのような大きさの看板を付けようが、自由です。結果、こうしたものが次々と表れることに対し、互いの立場を尊重することは本当に不可能なのか、という問いは専門家である自身が解決すべき課題です。腹を立てても何も解決しませんから、己の無力を恥じた上で、法による規制の次、を考えて行かなくてはなりません。

(色彩)基準は不要、という意見は変わらず多くあります。誰だって自由に、好きなものを創造する権利があり、新しいモノの出現が世界を変えることもある(ごく稀に)という認識は持っていますが、最終的には『この姿はこの場にふさわしいかどうか』という思いがのしかかります。

この現状を目にした数日後、小布施を尋ねました。

岩松院のそばにある、ゆうすげ花壇
小布施では修景、という意識が広く住民に浸透しているそうです。ちょっと長くなってきたので、詳細は11月17日(日)に開催する素材色彩研究会MATECOの連続セミナー及びそこで配布する資料に任せたいと思いますが(…我ながらうまいつなぎだ!)、景色を眺める、ゆっくりとまちを歩く、ということの楽しさや喜びをしみじみと感じさせてくれるまちでした。

自身は『素材と色彩』という、景観の解像度をぐーっと上げて行った時に目に触れるものを特に大切にしていますが、高い解像度をなめらかに下げていく・周辺と合わせることで整う関係性、を解いて行きたいと考えています。

マテリアルと都市・まち、というスケールを行き来する手法を構築していきたいものです

自己紹介

自分の写真
色彩計画家/環境色彩デザイン/いろでまちをつなぐ/MATECO代表/色彩の現象性/まちあるき/ART/武蔵野美術大学・静岡文化芸術大学非常勤講師/港区・山梨県・八王子市景観アドバイザー/10YRCLUB/箱好き/土のコレクション/舟越桂