2013年5月6日月曜日

公共の色彩、について。


設計やデザインという職業は人に会う機会が思った以上に多い仕事です。この数年は一段とその数が加速しているように感じます。本業以外のことが増えたせいもあるかも知れません。…ほとんどの人に信じてもらえませんが、自身はどちらかというと人見知りで、初めて会う方に自身の専門分野のことを話すのには今でもかなりの照れというか、気が引ける部分があります。

特に建築家に対しては、若い頃随分と痛い目にあった経験があり、話をする前から構えてしまうところが未だにあります。ところが対話というのはやはり自身の心境が投影されるものなのだなと思うのですが、こちらが覚悟を決めて真剣に話をすれば(賛同を得られるか否かは別として)内容そのものはかなりの精度で伝わるのだなという実感が持てるようになりました。

この二週間あまりの間に世代の異なる三人の建築家の方と話をしましたが、いずれも私が専門とする環境色彩という分野に興味を示して下さいました。この三人の方々には近々、素材色彩研究会MATECOのセミナーやイベントでお話を伺うことになっており、それぞれの方と対話を深めれば深めるほど、自身も益々知識や経験を身に付けなければと思いますし、多くの視座に富んだお話から普段の疑問やモヤモヤがすっと解消されることも数多くあります。

建築家のNさんからは、こんな言葉を頂きました。
『公共、という観点でそのようにまちを捉えることは難しい。よい仕事ですね。』と。(…賛同して頂いたことを自慢したいわけではありません、念のため。)
公共、という言葉を聞くとき、普段それほど公と私の関係性を明確化している訳ではないので、いつも少しドキッとしてしまいます。

公共の色彩のあるべき姿、とは一体どのようなものなのでしょうか?

私達の暮らしを取り巻く環境には様々なつくり手が関わっています。行政が主体となるもの、民間の住宅開発、個人邸…。単体としての公共性、個の所有権というように仕分けをすると、公と私は渾然一体となって私たちの暮らしを取り巻いている、と定義づけることができるでしょう。特に土地の所有については日本ならではの制度上の問題から様々な問題や課題が発生しており、街並みとしての公共性に対し統一的(あるいは共有可能)なビジョンを描きにくい、という側面も十分に理解しておかなくてはなりません。

環境色彩デザインの仕事はまずこの公共、という側面に対していかなる中庸さを発揮できるか、という視点を持っていることが特異な分野であると考えています。

これは一昨年から係っている山梨県での業務の一例です。

改修前。車庫の左裏手が参道となっています。

とある神社の参道の脇に保育園と車庫があります。近年改修したばかりだという保育園の外装色は穏やかな色調ですが、基調色の色相がやや赤みに寄っており、周辺の自然景観が持つ基調色相(赤みの少ない10YR2.5Y系)とは“やや”対比が強調されやすい色相であることに気付きました。暖色系の穏やかな色なら何でも景色に馴染む、という訳ではありません。また山道の脇には生垣があり、車庫の側面はある程度目隠しがされた状態ですが、自然の濃い緑と折板の高明度色が対比的であることも気になりました。

この時の計画の対象は右手にある車庫でした。持ち主からは『調和を図るならば保育園と同じ色にすればよいのでは?』という案が出されましたが、私たちはこの環境で最も尊重すべきは神社の朱赤の鳥居であると考え、車庫に塗装する色相の赤みを抜くことを提案しました。色見本だけではわかりにくいので、フォトモンタージュを使って検証を行い、実施に至りました。

下の写真は施工(改修)後です。写真ではわかりにくいかもしれませんが、現地の皆さんが驚かれていたのは、『車庫に赤みの無い色にしたら、保育園の外装色の赤みが少し抜けたように見える』ということでした。

改修後。車庫の外装は色相10YRで統一しました。

その点、私たちは経験と色彩学という学問においての論理から“そのような見え方になるはずだ”ということは確信した上で提案を行っています。こればかりは中々言葉では伝わりにくいのですが、色彩が周辺に与える影響・受ける影響を鑑みてふさわしい色を選択すれば、周辺の問題すらも(わずかな違和感、ですが)改善することが可能なのです。

もちろん車庫という個の問題を考えるとき、よりよい解決の策はいくらでもあることでしょう。車庫の位置そのものから検証を行うことも必要かも知れません。ですが現況の車庫ありき、で考えるとき、外装色の持つ役割はやはり公共空間に出現するものとして大きな意味と周辺にその効果を発揮しうる要素として捉えるべきなのではないか、と考えています。

室内から一歩外に出ればそこはもう公共の空間です。その中にはもちろん、主張があっていいもの・必要なものもありますし、適度な変化がなければまちの個性や特徴は見失われてしまうことでしょう。そうした前提を踏まえていても最近はよく『とにかく穏やかなグレーやベージュにしておけってことですか?』と言われることも多く、それはそれでまた困ったなあと思ってしまうのですが、では『とりあえず馴染ませて』行くことで、果たしてどんな問題があるのだろうか、ということを考えさせられます。

新しい創造・新しい価値の創造を拒んでよいのか、という視点があるでしょう。自身はそのこと自体、まったく否定する気持ちはありません。が、その場で尊重すべき景色が他にある場合において、さしたる違和感がない状況の生み出し方は本当に不要なのか、とも思うのです。

そしてまた、その違和感は優れた(とされる)デザインが代わる代わる出現することによってのみ解決できることなのだろうか、ということをいつも考えています

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自己紹介

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色彩計画家/環境色彩デザイン/いろでまちをつなぐ/MATECO代表/色彩の現象性/まちあるき/ART/武蔵野美術大学・静岡文化芸術大学非常勤講師/港区・山梨県・八王子市景観アドバイザー/10YRCLUB/箱好き/土のコレクション/舟越桂