景観に配慮する、というと決まって言われるのが「配慮すべき(価値のある)景観などここには存在しない」というひとことです。その発言の裏には、様々な災害から復興を繰り返してきた東京(・日本)において、文脈を継承し育んでいくという意識が薄れやすいこと、またその行為に根拠を見出すこと自体が大変難しいことが挙げられ、どのまちの歴史を振り返ってもそうした文脈の分断は明らかである、という論理があるのだと思います。
一方、公共施設・設備の色については、2004年(平成16年)に策定された「景観に配慮した防護柵等の整備ガイドライン」の発行により、「環境の中で主張する必要のない色」が統合・整理され、山間部のみならず都市部でも大分道路景観がすっきりとしてきた、と実感することが多くあります。
例えば→設備や橋の色の判断基準について
しかしながら統合・整理=均質・個性が無い、という意見も多いですし、運用する側の意見としては「景観配慮色にしておけば問題ない(文句は言われない)だろう」という声も頻繁に聞かれます。(ある事象に対する反対の声程、大きく聞こえるものです)
いずれも間違った内容ではありませんが(確かにそういう事例や経験をされている方も多いので)短絡的というか、極論に行きすぎだな、という感じがしています。
自身としてはこの10年で「景観配慮色」が「地の部分を整えてきた」ことに一定の評価をすべきだと思いますし、そのおかけで他のもの(まちなみ、植栽、個々の建築物)が際立つようになってきた例も数多く存在すると思っています。
自然の緑よりも鮮やかな人工物(防護柵)。 色でここまで過剰に目立たせなくとも、機能を果たす工夫は沢山あります。 |
防護柵の色単体の良し悪しではなく、 周辺との関係性をどう見るかが課題です。 |
公共空間としてより多くの人に好感を持って受け入れられるように、という価値のつくり方があっても良いのではないか、と考えています。
年明け早々、土木学会のセミナーで下図の上段にある図が示されました。空間を認知する順番を模式的に表したものです。多様な意見がある、ということ以前に、例えば山や湖・満開のサクラを見たときには多くの人がパッと見て「心地よい」等と判断することができるでしょう(※あくまで、上の階層との比較論です)。
そうした誰もが共有の認識を持ちやすい要素に比べ、歴史的な価値のあるまちなみや遺産、新しく開発される街区等については、先の自然よりも少し経験や学習に基づく判断の基準が上がるように思います。
直近の例に置き換えると、新国立競技場に関する議論は景観としての価値が共有しにくい(最も難しい)例の一つに挙げられると思います。新国立競技場に「景観配慮色を採用すれば問題ない」と考えることが的外れであることは下図の下段で解くことができると考えています。
最近、行政の研修等に使用している資料。 ガイドラインが網羅すべき・できる部分を、明確にできればと考えました。 |
それでも、自身は「平均的な水準の向上」あるいは「誰かが関係性を無視して好き嫌いで決めるくらいなら他の要素のことを考えて地にしておく」ことは決してまちの均質化・無個性化でも、担当者の思考停止とも言い切れないのでは、と考えます。
地であるべきものに、地であれということ。それは他の要素の可変や更新の可能性も含め、次代へ検証をつなぎ、判断を担保することに繋がるのではないでしょうか。
…とはいえ、近年、住宅街では毛虫が困るからサクラは伐採して欲しいという住民からの要望が出るなど、一概に自然・緑は誰もが心地よいと言い難い時代になりつつあります。価値や美しさといったものを行政が押し付けるな、という意見も多く(…それもそうか、と思う部分も多々)、環境における色彩の構造については、改めて行けるところまでは理詰めで解く必要があると考えています。
以下、参考
→景観に配慮した防護柵等の整備ガイドライン(国土交通省HP)
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