昨年度から大学の非常勤が前期に集中し、水・木曜はほぼ終日、本業(実務)で使う脳とは異なる部分・体力・気力…を駆使しています。この数年、学生と話をしていて薄々感じていたことですが、今年ははっきりと「ああ、これがデジタルネイティブ世代ということか」と感じる場面が多く、色彩の体感の伝え方や色彩がある・使う意味について、こちらも一層考えさせられる日々が続きます。
先日、静岡文化芸術大学の講義のために、改めて近代建築の五原則(※正確には新しい建築の5つの要点、という説もあるようです)を確認していたところ。「『…構造体を大地から切り離し、柱が構造的に建築を支えることで』『自由な平面』と『自由な立面』を獲得した」という一文を目にしました。
なるほど、そう考えると、それまでの地域の素材(=石、土、木)でつくられてきた建築物の仕様・仕上げから鉄やコンクリートに変わっていく際、「大地の色(素材)」からの脱却が必然であったことにも、改めて至極納得がいきます。建築家のアースカラー嫌い、は想像以上に根深い…のかも知れません。
大地から切り離されることで、自由を得た建築。その自由の先に待ち受けていたのは、多くの人の予想を超えていたであろう、近代化や都市化の波と大きな環境の変化、なのではないでしょうか。
近代建築の発展に大きな影響を与えた五原則の発表から、約90年が過ぎようとしています。建築や土木・都市の色彩は、未だ成熟期を迎えてはいないと感じますし、繰り返される自然災害やその他の都市問題(公害、騒色、光害、屋外広告物の氾濫、交通、基盤整備、高齢化…)等との対峙や調整を繰り返しながら、変化し続けている(いく)ものなのかもしれない、と感じることも多くあります。
(※それが問題だ、と言いたいわけではなく、あくまでかれこれ25年、環境色彩と向き合ってきたものの実感として。)
近年、造園関係の団体からお声かけを頂く機会が増え、植物と都市・まちの関係について、レクチャーをさせて頂くことが多くなってきました。環境色彩はどこへ出向いても(未だに)「アウェー」感を拭うことはできず、どういった立ち位置で話をすれば「響く」のか、中々その距離感を掴めずにいます。
ただ、繰り返し都市やまちの色について経験を元に話をするうち、「これだけは多くの人に支持を得られるのではないか」という方法論も見えるようにもなってきました。
2014年8月11日のblogに「自然界の色彩構造10の原理(仮)」を書きましたが、以降、各項目についてブラッシュアップを重ねています。五原則、くらいにシンプルにまとめたいという気持ちから、最近はその中の⑤と⑥をまとめ「自然界の鮮やかな色は命あるものが持ち、地表近くにあり面積が小さい」ということを、少し言い方(順序)を変えたりしながら、写真と共に収集・発信に努めています。
都庁第二庁舎、21階より。右のパーゴラがなぜここまで鮮やかなのか、が気になりました。 |
「鮮やかな色は地表近くにあり、命あるものが持つ」という観点でいけば、 都市のパブリックアートは自然の彩りに該当するのかもしれません。 |
自身は実務においては、色彩の調和論に基づく配色の手法を駆使しながら、「周辺環境と関係性において」「個がどう見えることがその場において最もふさわしいか」というアプローチを繰り返しています。
理想としては、99%までは理詰めでいきたい。それはひとえに「なぜこの色か・この配色か」ということに出来る限り正確に応えるため、に他なりません。クライアントからフィーを頂いて仕事をしている以上、あるいは多くの市民の資産ともなり得る公共施設等についても、「なぜ」という問いに対しては「なるほど」と納得してもらうことが不可欠である、と思っています。
(つい最近、とあるランドスケープデザイナーの方がセミナーで「(自身のデザインに対し)…理解してくれなくてもいいから納得して欲しい」と思うことがある、と仰られていて、その点にはとても共感を覚えました。100人が100人、良いと思う色や配色は考えにくいけれど、なぜこういう色か・配色か、という解説については100%の理解でなくとも、(とにかく)納得して欲しい、という気持ちがあります。)
一方、その「なるほど」は恐らく共通の体験・経験がなければ、成り立たない感覚でしょう。地域や年代が異なっていても「自然」から享受できる視覚的な効果や受ける印象は、(あくまでその他の要素に比べると)普遍的な共通の認識としてある種の価値を持ち得るものなのではないか、というのが自身にとってのわずかな希望です。
個々の良し悪しは大切ですが、建築や構造・工作物等は周囲との関係が良好でなければ、街並みの形成に貢献することは難しいのではないか、という疑問が長く心の中心にあります。「新しいもの、奇抜なもの、大きいものへの前衛的な挑戦を欠いては、文化は生まれない」とある建築家が言っていました。対比も調和の一種ですから、それを否定するつもりはありませんが、一方では人々の振る舞いの総体としての文化を考える時、自身は「調整という名の応戦」の中から、穏やかな解を導き出していきたい、と考えています。
新しいもの、奇抜なもの、大きいものが映えるのは、今ある環境の中でその関係性が成り立つ「地」があってこそ、だと思うのです。
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