2012年9月12日水曜日

配慮が感じられる、ということ-京都市内の屋外広告物 その2

京都市内の屋外広告物について、嵐山界隈で見かけた事例をご紹介します。初めて訪れた地ですが、こんなにも賑やかな観光地だとは思っていませんでした。ちょうど日曜ということもあって、大変な人出だったのですが、宿の方にそのことを告げると『紅葉時期はもっとすごいですよ』という答えが返ってきました。

桂川沿いの景色。山並みと屋根並みの連なりが穏やかで、とても自然に感じられました。
渋い色合いののぼり旗。高彩度色を使用しなくても人の目を惹きつける事は可能です。
地色を統一した看板。色数も抑えられていて、まとまりがあります。
観光地ならではのにぎわいや京都らしさ(和のイメージや季節感)を生かした看板や店先のしつらいが数多く見受けられ、生かすべき歴史のあるまちとしての誇りや商人の心意気、のようなものを感じました。

ところが、そうした例とは対照的に著しく周辺環境と対比的な表示や工作物もいくつか見られました。

過剰な際立ち方の高明度色や周辺の景色と対比の強い寒色系の色。
市街地ではさほど意識されない自販機のデザインや色も、自然景観や伝統的な建築様式を持ったまちなみの中では違和感が大きく、過剰な目立ち方をしている、と感じます。

とあるお寺でも目立っていた寒色系の自販機。
念のため、自販機は不要だ等と思っている訳ではもちろんありません。先日紹介した事例のように嵐山の中でも店舗の外観に併せ木目のシートを貼った例など、『その場の雰囲気に合わせていくこと』が必要だと考えている、ということです。
 
川沿いの茶屋?に掲げられた派手な赤色の幕。背景の緑とは補色の関係、最も強い色相対比。
…周囲の景色が整えば整うほど、過剰な主張や目立ち方に対する違和感が増大するように感じるのは『色オタク』な人たちだけなのでしょうか?上の写真、川沿いの茶屋は遠くからもよく目立ち、あああそこに何かあるのだなという目印としては有効です。

でもここで休息をとる人たちは、対岸の木々の緑や水辺の景色(桂川は鵜飼の名所です)を楽しみたいことでしょう。寺院と庭園の関係と同じように、私たちヒトもその場に立てば景色の一部となり、周辺に影響を与えたり影響を受けたりするものです。

命を持ち動く動植物やヒトが持つ色彩は、時間や季節の変化(ヒトの場合は年齢や衣服)などにより刻々と変化し、景色に彩りを添える存在です。動植物やヒトがまとう色彩は一時的・動的なものですが、建築や工作物の外装色はその場に定位し殆どの場合その場を動きません。

見る・見られる関係で環境の色彩を捉えてみると、過剰な主張により『見られる』立場として成立することと、自身がそれを『見る』立場になったとき、どう感じるか、というバランスを考えざるを得なくなります。大抵の場合は(自分がつくる・表現するものが)どう見られるか、ということに意識を置いていると思いますが、見る側に立ったときどう感じるか、というのが『配慮』の本質だと考えます。

誰かの立場に立ってみること…。言うは易し、の最たるものかも知れません。
…っんなこと言っていても何の解決にもなりませんので、さくさくとあの手この手を使って、世界を変えて行きたいものです。

2012年9月9日日曜日

京都の景色から考える、現代の建材の色

もう少し、京都の景色から考えたことをまとめておきたいと思います。

近年、集合・戸建に係らず、住宅の(アルミ)サッシの色をどうするかということを検討する際、黒や濃茶等の濃色を選ぶことに躊躇される方が多く、濃色を提案しても採用されない場合が数件ありました。

それにはいくつかの理由が考えられます。
  1. 外装・内装色が総じて高明度化しており、明るい基調色に対し線的に出現する濃色が対比的に感じられるため
  2.  白基調(特に壁)のインテリアに対し、濃色のサッシ(フレーム)が室内の開放感の妨げになる、と懸念されるため
  3.  濃色を使ったことが無い・最近はあまり濃色を使わない等、近年の傾向に抵抗することへの不安感
設計者や事業主と話をしていると、濃色のサッシや手摺が却下される要因としては上記の3点が大きな割合を締めている、と感じます。もちろん、建築物の規模や意匠により、ステンカラー・アルマイトなどの明るい色調がふさわしい場合もありますし、濃色・淡色どちらでもバッチリ決まる、という場合もあります。

詩仙堂。濃色の柱越しに明るい庭を見ると、やはり外の景色の方が印象的に移ります。
夏の陽射しに照らされる詩仙堂の庭園を見ていたら、ふと外の景色だけを見ていることに気がつきました。初めは室内のつくりや天井の高さなどに気が行っていましたが、畳に腰を下ろすとやはり外の景色に目が行き、室内の装飾や柱の存在感はどんどん薄れて行きました。

もちろん、この景色をそのまま現代に当てはめることは出来ませんが、少なくとも『濃色のサッシが室内の開放感の妨げになる』ということは払拭できるのではないか、と感じます。

外装の白と同じように、とにかく明るく・白っぽいものの方が存在感を消すことが出来る、という考え方はやや乱暴であり、明るさの見え方・感じ方は周辺の色や照明の具合など、他の要素との関係性によって決定付けられますから、一つの部材を検討する際も単に時代の傾向や慣習に頼りすぎることなく、常にその環境・空間の状態を推測・検証し選定にあたるべきだと思っています。

庭園に用いられる白系の砂利は、反射光を室内に取り込むため、という記述を以前読んだことがあります
現在、室内の明るさ(照明)環境は数十年前と比較しても大きく変貌を(明るい方向に)遂げている、と思います。京都の寺院を巡っていると、昼間でも本当に暗い場所がたくさんありました。でも長くその場にいると徐々に慣れてきて、ほの暗い中で見る木の柱の質感や障子越しの柔らかな陽射し、鈍く光る襖の金箔等、暗さがもたらす趣や時間の変化の豊かさを味わうことが出来ました。

ほの暗い室内に居ると、視覚的な情報量が減少する分、ちょっとした風で庭の木々が触れあう音、どこかで焚かれている香のかおりなど、五感が心地よく刺激される、という感覚を体験しました。

東福寺。石のテクスチャーの違いによる灰色の濃淡。
同じく東福寺。しっとりとした艶のある灰色。
東福寺、方丈南庭の際。灰色によるコンポジション。
そしてもう一つ印象的だったのが、石材の様々な表情です。普段から素材には注視しているつもりですが、日本庭園を眺めていて改めて灰色の階調の豊かさに目を奪われました。東福寺、龍安寺、詩仙堂…。いずれも観光パンフレットなどに掲載されている写真は紅葉時期のもので、主役は四季の彩りであることが明確です。

でも実際に訪れてみると、瓦の色むらや苔生す石、大判の石材と砂利のスケールの対比等、実に細やかで、自然に同調するような微細な変化が感じられ、周辺は夏の緑一色でしたが決して見飽きることはありませんでした。もちろん紅葉時期もより一層、素晴らしい景色が眺められることでしょう。

東福寺の方丈庭園。思ったよりもこじんまりしたスケール感、苔のボリューム。訪れてみないとわからないことは多くあります。
庭園は造られた自然であり、そういった意味で寺院は建築物と庭園が一体的にデザインされている(内と外の見る・見られるの関係)のだと思います。近代になり自然素材以外の建材が数多く出現し、選択の可能性が広がったことから、内部・外部のデザインがそれぞれに多様化していった、という変遷もまちなみに大きな影響を与えています。

部材の色を決める場合、様々な条件を自身で設定しますが、もっと時間を遡ってそのあり様を考えてみることも必要なのではないか、と常々考えています。単に和風・洋風といったスタイルにとらわれず、長く自然環境と付き合ってきた先人達の知恵や経験を生かすべき部分が、数多くあるはずだと思うのです。

新しい建材は機能に優れていて、多く使われるほどに求めやすいコストになって行くなど、よい面が多くあり、そうした進化を否定するつもりは全くありません。ただ、その選定においては選ぶ側にも多大な責任があり、一つの部材が景色までを変えてしまう可能性もあるのだ、ということを今まで以上に意識していきたいと思いました。

2012年9月5日水曜日

塗装の可能性-山東省の調査より

順序がすっかり逆になってしまいましたが、先月中旬調査に行ってきた山東省の2つのまちの景色もご紹介しておきたいと思います。

今回の調査地は濱州市(ビンジュウ・bīn zhōu)と沾化(ジャンホア・zhān huà)県、二つのまちは70キロ程離れています。いずれもほんの10年前までは殆どが農村だったとのこと。わずか数年で新しい道路や河川、建物群が出現したということには驚きを隠せませんでした。
以下は2つのまちのより新しい方、沾化県の写真です。

市政府建物(県内で一番高層)屋上から眺めた景色。屋根の高彩度色は現実離れしていて、何か模型のような印象を与えます。
何もかもが新しく、(善し悪しは別として)きれい、という印象は感じます。でも何となく不安になるというか、どうしてこういう景色なんだろう、ということばかりに気が行ってしまいます。

こうした地域の古い集落は土壁の平屋で、写真の一帯は1950年代につくられたものだと聞きましたが、かなり老朽化が進んでいます。

私達は調査に行くと必ず、こうした地域の古い集落に案内をしてもらいます。そこには必ず地域の素材があるためです。ところが、地元の方々はこのような自然で穏やかな雰囲気の古い集落を歩きながら『こういう景色はホッとするけど、冬は寒いし不便だし、黄砂を思わせる家に住むのは嫌。』と言っていました。 …なるほど。

…どこまでが大地で、どこからが壁か。  
目の前の道は舗装が完了しています。この周辺の集落はあと一年ほどで壊されていくそうです。
一方、新しい住宅は同じ間取りの反復による団地のような形式です。上の屋上から撮影した写真にあるように、同じ形態・ボリュームの住棟が20・30と連続している場合が多く、特に外装が塗装の場合はファサードの与えるインパクトが大きい、と感じます。

それまで地域に育まれてきた建築の様式や素材・色彩から大きくかけ離れた建築物の外装は、どこにも根拠が無いように見え、延々と続く似たような景色に圧倒されることが多くあります。
 
明度8・彩度6程度の外装色。日本ではまず見かけない明るく鮮やかな基調色。

塗装にしか出来ない配色、があると考えています。これはリズミカルですが過剰な派手さは無く、ともて興味深い事例でした

日本でも『大きな面積に使用する塗装色の選定』や『群で出現する建築物のまとまりと変化のバランス』が最も難しく、積極的に色を使ってすぐに飽きられる例や、無難に淡色・単色でまとめてしまう例などが多く、自身も常々、どこまで塗料の特性を理解し、形態に応じたデザインを展開できているだろうか、と自問しています。

今回の山東省で鮮やかな色や対比の強い色が多く使用されていた理由の一つには、黄砂の影響があります。特に春先は始終景色がかすみ、何もかもが黄ばんで見えるのだそうです。塗装を施してもわずか2年ほどでくすんでしまうので(塗料自体の性能の問題もあると思いますが)、思い切り対比を強く、そして強い色を使うのだ、という話を聞きました。

自然素材を使った住宅はその地にあるものを利用し気候風土と上手く折り合いをつけながら暮らしてきた、という歴史があると思いますが、集合住宅として規模が大きくなった時、全てを土壁で仕上げるわけにはいきませんし、建築に使用する建材の変化と共に、色彩選択の新しい論理を組み立てていく必要があると感じています。もちろん、日本でも同じことが言えると思います。

素焼き瓦の家並みは自然の緑と馴染み、穏やかな景色です。背後にはまちの中心部で建設の進む高層の建物が見えます。
素材が現代の仕様やかつて無かった新しい建材に変わっていく際。これまでそれらの色のことはあまりにぞんざいに扱われてきたのではないか、という思いがいつも頭から離れません。

塗料は色表現の自由度が高い材料の一つですが、形態や規模・用途を総合的に鑑みると、建築の基調色の範囲は意外と狭い範囲に収まっていますし、見慣れない・不似合いなという観点のみならず、建築物が公共の場に出現するものであることを考えると『余程のことが無い限り基調色には使うべきではない』範囲の方が圧倒的に広い、と考えています。

文化や気候風土の違いを考慮しつつ、この地に新しくつくられていく景色にどのような秩序を与え、許容すべき変化を示すことが出来るか…。6日間に及ぶ調査の結果から、根拠を導き出し論理を構築する作業が続いています。

2012年9月2日日曜日

測色015-虎屋京都一条店

京都御所の側にある和菓子屋、虎屋一条店・虎屋菓寮一条店内藤廣建築設計事務所の作品です。一昨年、内藤氏の“建築と素材”という講演会の中で、外装のタイルについて詳しくお話を伺ったことがあったので、是非拝見してみたいと思っていました。

御所の周りは緑が多く、特に御門の周辺は閑静な住宅街で、様式こそ現代風の建物も多くありますがちょっと路地を入っていくと趣のある味噌屋さんがあったり、歴史あるまちであることを認識することが出来ます。
虎屋京都店は少なくとも1628年以前から、この地に店を構えていたそうです。

陰影が美しい模様をつくり出している外装は、50角モザイクタイルの特殊面状です。中央の部分がふっくらと盛り上がっていて、磁器質のタイルでありながらとても柔和な雰囲気を持っています。

御所の目の前、烏丸通りに面する京都一条店。
実は今回、いつもの測色シリーズのように色票を持って行って現地で測ったわけではなく、ある方にお願いして実際に使用したタイルをお借りし、事務所で光学式の測色計を使って測ってみました。
結果は7.5YR 8.4/0.6程度。遠目では白ですが、ほのかに黄赤みがあります。またそれは均質な色面ではなく、釉薬特有の自然で繊細な色むらがあり、何ともいえない味わいが感じられます。

(この測色計では光沢のあるものの色値をより正確に表記するため、正反射光を除去する方法と正反射光込みの方法を同時に計測することが出来ます。表面状態に大きな影響を受けやすいラスタータイルなどを計ると、2つの数値には少し開きがあります。

ちなみに上記の数値はSCE(正反射光除去・実際の見え方に近い)の数値で、SCI(正反射光込み・素材そのものの色)の方は 6.8YR 8.6/0.7 程度でした。塗装の色見本を測る時とあまり変わりません。

このタイルには光沢があり、素材そのものの色は見る角度や光の当たり方によって当然変化を受けますが、実際に人が見る見え方と大きな相違は無い、ということが言えると思います。
※あくまで対象に直接光を当て測色場合の結果であり、屋外では夕刻など色温度の変化も見え方に多少の影響を与えます。)

講演会の時に確か内藤氏が『サクラの花びらのような、淡くうっすらと色味が感じられる程度』 を目指して何度も試作を繰り返した、と仰っていました。

例えば明度8.5という明るさを印刷などの色見本で見ると、多くの方は『これはあまり白くない』と言います。色の面積効果によるもの(同じ色でも大きな面積で見ると明るく見える=小さいと暗く見える)と、色見本の周囲にある地の白との対比で、誤った判断(先入観)を持たれている方は、設計者にも多くいます。

少し前のことになりますが、ある若い建築家の方が『N9.5の白以外怖くて使えない』と仰っていたことが強く印象に残っています。明度8.4程度のタイルが夏の日差しを受け、白く輝くように見えることを考えると、明度9.5程度という数字がいかに不必要な白さを放つか…。自身はまた別の意味で、明度9.5の白を建築の外装基調色に使うことの怖さを知っています。

少し話は飛びますが、昨日、東京都国立近代美術館でスタジオ・ムンバイのビジョイ・ジェイン氏のお話を聞く機会がありました。後半、会場からの質問で『スタジオ・ムンバイの作風はヴァナキュラーだと思いますが…』という発言に対し、『我々はヴァナキュラーではない。でも、その精神は内包している。私達はそういう議論の時、ヴァナキュラーという言葉の定義から考えていかなければならない。』という一言がありました。

また、『素材が何か、というよりも、完成した時のセンセーションが大切であり、完成した建築物を見た時の感想やそれがつくり出す雰囲気こそを感じ取って欲しい』とも仰られていました。

測色シリーズは至極勝手に、多くの人が知っている建築・工作物等に使用されている素材や色彩の構造を読み解くことで、単純な白・黒という話ではない検討や選定の過程、そしてそれがどういう見え方をするのかということを自身が確認する作業です。

仕事柄、素材や色彩に注視していることは間違いありませんが、やはり建築家の仕事というものはビジョイ氏の言うように『完成した時、それがその場にあり続けるとき、どのような雰囲気をつくり、どのような影響をもたらすか』ということが考え抜かれているのだ、と思いました。

『今回はたまたま、タイルだった。』のかなあ、等ということを考えています。当たり前のことかもしれませんが、素材ありきではなく、思い描く雰囲気を表現するためにタイルが選択された、のかと…。そうやって考えていくと、先の『N9.5以外怖くて…』という建築家は、白ありき、で考えているということになるのでしょうか。もちろん、そこにも何がしかの方法論があるはずだと思っています。

菓寮の入り口にあるギャラリー。壁面は緩やかな傾斜を持っています。
傾斜を付けて悩ましかったがタイルの割付だそうです。縦長のタイルを組み合わせることで、割付ける壁面の幅の変化に対応されています。
建具の前には水盤があり、その水面のきらめきが軒に映し出されていました。
修学旅行以来、本当に久しぶりに京都を歩いてみて、歴史ある建物や建築の様式などに目を惹かれたことももちろんですが、例えば各所に設置された風鈴や日よけの暖簾など、ちょっとしたことが歩く人の目を誘い、その場に佇んでみたくなったり暖簾の奥を覗いてみたくなる…そんな印象を受けました。

風情、情感、趣…。カタチや言葉に表しにくいものの数々が、深く心に残っています。

宇治金時(小)に白玉を追加、の贅沢なメニューで一服してきました。

自己紹介

自分の写真
色彩計画家/環境色彩デザイン/いろでまちをつなぐ/MATECO代表/色彩の現象性/まちあるき/ART/武蔵野美術大学・静岡文化芸術大学非常勤講師/港区・山梨県・八王子市景観アドバイザー/10YRCLUB/箱好き/土のコレクション/舟越桂